佐久に武田信玄の墓がある?
さて、先日も少し書いた、佐久平の御朱印巡り。
鼻顔稲荷、貞祥寺に続いて、岩村田の大田山龍雲寺に詣でました。

場所は、岩村田の交差点のすぐ近く、ちょうど金沢病院の裏あたりにあります。
中山道からも、はっきりと大きな屋根と山門が見えるのですが、
よく通る場所だけに、またいつでも、と思っていて、先延ばしになっていました。
街道筋の宿場には、歴史ある大きな寺がある、というのが通例ですが、
ここも例外ではなく、立派な山門を持つ、なかなか風情ある寺です。

ちなみに宗派は曹洞宗。
そのためか、一分の隙もない感じの、
禅宗寺院ならではの、ぴりりと引き締まった感じの本堂です。

その本堂に近づいて見ると、入口になんと武田菱が。

そして、屋根の棟の部分にも武田菱。

こちらの寺院は鎌倉時代に建立されたものの、少し衰微していたのを
戦国時代にこの地域を支配した武田氏により再興。
特に武田信玄が帰依した曹洞宗の高僧、北高全祝を招いて寺勢を拡大し、
武田信玄が川中島の戦いなどに出陣の際は、戦勝祈願したという
いわれを持つ寺院なのです。
さらに、本堂と庫裏をつなぐ回廊下には、こんな扁額が。

なんと、信玄公霊廟とあります。
え、武田信玄の墓がある?
武田信玄の最期と言えば、今まさに大軍勢を率いて都に攻め入ろうと西上していたところ、
信濃国駒場(現在の阿智村付近)で落命したと言われています。
そして、その死を悟られないよう、甲府に戻り、
3年後に塩山の恵林寺で盛大な葬儀が執り行われ、そこに葬られた
ということになっているのですが、
その前に、一時埋葬していた場所と言われる、甲府市の武田神社付近にも
墓と呼ばれるものが建っているそうです。
にもかかわらず、なぜここ佐久の龍雲寺に信玄の墓があるのか?
ということですが、実際、昭和6年に信玄のものと思われる遺品とともに
骨が出土した、というのです。
現在、その場所にはこのような五輪塔が建てられていました。

その脇には霊廟が立てられ、現在はその中に出土したものが祀られているそうです。

でも、なぜ?ということなのですが、
この寺の北高全祝は、武田勢に従軍していたそうです。
そして、陣中で没した信玄を弔い、荼毘に付して甲府に戻る差配をしたと言われているそうで、
その経緯からすると、一部を分骨して自分の寺に持ち帰り、供養したとしても
おかしいことはありませんね。なので、本物ではないか、といわれていたそうです。
まさか、こんなところにも武田信玄の墓があるとは思いませんでした。
我が家も元をたどれば山梨県出身。
なので、いつもよりもさらに丁寧に拝んできました。
最後に庫裏で御朱印をいただけるかお伺いしたところ、
印刷ですが、と断られた上で、こんな御朱印をいただいてきました。

こちらにも、武田信玄公霊骨安置と書かれています。
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街道筋の宿場には、歴史ある大きな寺がある、というのが通例ですが、
ここも例外ではなく、立派な山門を持つ、なかなか風情ある寺です。

ちなみに宗派は曹洞宗。
そのためか、一分の隙もない感じの、
禅宗寺院ならではの、ぴりりと引き締まった感じの本堂です。

その本堂に近づいて見ると、入口になんと武田菱が。

そして、屋根の棟の部分にも武田菱。

こちらの寺院は鎌倉時代に建立されたものの、少し衰微していたのを
戦国時代にこの地域を支配した武田氏により再興。
特に武田信玄が帰依した曹洞宗の高僧、北高全祝を招いて寺勢を拡大し、
武田信玄が川中島の戦いなどに出陣の際は、戦勝祈願したという
いわれを持つ寺院なのです。
さらに、本堂と庫裏をつなぐ回廊下には、こんな扁額が。

なんと、信玄公霊廟とあります。
え、武田信玄の墓がある?
武田信玄の最期と言えば、今まさに大軍勢を率いて都に攻め入ろうと西上していたところ、
信濃国駒場(現在の阿智村付近)で落命したと言われています。
そして、その死を悟られないよう、甲府に戻り、
3年後に塩山の恵林寺で盛大な葬儀が執り行われ、そこに葬られた
ということになっているのですが、
その前に、一時埋葬していた場所と言われる、甲府市の武田神社付近にも
墓と呼ばれるものが建っているそうです。
にもかかわらず、なぜここ佐久の龍雲寺に信玄の墓があるのか?
ということですが、実際、昭和6年に信玄のものと思われる遺品とともに
骨が出土した、というのです。
現在、その場所にはこのような五輪塔が建てられていました。

その脇には霊廟が立てられ、現在はその中に出土したものが祀られているそうです。

でも、なぜ?ということなのですが、
この寺の北高全祝は、武田勢に従軍していたそうです。
そして、陣中で没した信玄を弔い、荼毘に付して甲府に戻る差配をしたと言われているそうで、
その経緯からすると、一部を分骨して自分の寺に持ち帰り、供養したとしても
おかしいことはありませんね。なので、本物ではないか、といわれていたそうです。
まさか、こんなところにも武田信玄の墓があるとは思いませんでした。
我が家も元をたどれば山梨県出身。
なので、いつもよりもさらに丁寧に拝んできました。
最後に庫裏で御朱印をいただけるかお伺いしたところ、
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